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1991-2017

ネットにさまよう遺書がどれだけあるのか

ネットに書き込まれた遺書じみたものや、自殺するまでの心境を綴ったブログがいくつある。
真偽を問わず、いくつ存在しているか調査するべきだと思う。
インスタグラムでは心の病を持つ人が自傷画像や自傷を感じさせる言葉を更新することで閲覧者がシステムサポートに通報し、本人に注意および専門機関をすすめるシステムがあるらしい。自傷画像を更新した人がスクリーンショットで公開してたから知ってる。「こういうの余計なお世話なんで」と言って。

声のなかにはとてもあっさりとしたような、悩みなんて深くないんじゃねえの?と思ってしまうような心情の吐露が溢れている。
日常的なSNSで更新されるものや、ここはてなブログで更新される文章、無料ホームページサイトで更新される文章に文字化された書き手のことが表されている。言語化とは非常に難しい、なんせ「私」が思ってることは、私が思ってる以上に伝わることはないに等しいし、気持ちの半分どころか1割も伝わらないことばっかりなんだから私たちは言葉を発すること=助けを求めていると思ってはいけない。行動で表現しようとしても無駄だ。しょせん赤の他人同士であって、興味本位もしくは読み手が自分の心境と似通った理解できる範囲内のものであると認識しないと哀れとは思ってもらえないもんなのだ。私は私のことしかかわいくなく、赤の他人を思いやる余裕なんてなく、きっと明日も変わらず生きている私と赤の他人のあなたなんだから・・・いくら悲しいと嘆いても明日を生きる事実には変わりがないでしょう?


どうして太陽がのぼることを信じ、明日を待つことが出来るのか。哲学の世界ではこんな疑問もあります。
それは、なんでかっていったら「明日も太陽がのぼる」ことは習慣となっており、我々の経験がそう判断しているのだ!!などと供述しており・・・

それと同じように私たちが明日も酸素を吸い二酸化炭素を吐き、死んでやると言いながら飯を炊き夜をこえてしまうもんなのだ。生きていることはもはや体に染みついた習慣だろう。しかも依存性のある。依存というのは過去の歴史に挙げられていたのかは、そこまではわからないが近代になって依存が病気であるなんていう考えに至った。きのう聞いた話だと、多飲症というものが精神疾患として挙げられているらしい。これは「1日に水を10リットル飲む」「水を飲んでいないと落ち着いていられない」というものらしく水を飲むということにたいして体の悪いものを浄化させられるとか一種信仰のようなものにさえなっているそうだ。
前に、このはてなブログのなかに「我々はものを消費しているのではなく概念を消費している」ということを書いた(かもしれない)が水を大量に飲むということにも似たものを感じた。アルコールなら体にしみつく依存性があるものなんだろうが、水はそうではない。「体にこんな影響がもたらされますよ~」という医学的な見地からして依存と呼ばれる以外に、多飲症のように、ただただ自分がそうしていないとならないという強迫概念が発動し、あとから体を壊すなんていうことが現代では起こっている。人間の本能や欲求は壊れかかっていると説かれているが、壊れかかった本能や欲求のエネルギーは消滅することなくベクトルをかえ新たな問題をうみだしている。今くしゃみが4回でとまってしまうと私は「どっかのだれかに死ねと言われている」と思うので今わりとメンタル削ぎ落されました。

たまには変わっていておもしろいかなあと思い意識がぼや~っとしたままこの記事をかいています。お酒を入れているものでね・・・文字のタイプミスを直すとか確認することいつもより多いです。さっき、1階におりて、飲み物を取ってくるときに階段で足の親指をガッとぶつけるくらい頭がぼや~っとしています。

まあでも本当、「今からここに記録した自殺の計画を実行します」の更新から2年3年も更新がなかったら気持ちを空っぽにするしかないんですよね。見ず知らずのあなたの苦しみを私が見つけたときにはもうあなたはこの世にいないのかもしれないですね。