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1991-2017

私の休日、退屈と消費

退屈とは
事件を望む気持ちがくじかれたものであり、
退屈の反対は快楽ではなく興奮である。

そして、退屈している者にとって事件とは、
今日と昨日を区別してくれれば良いのであり
必ずしも愉快なものでなくてよい。

私たちは休日に外出する。
流行りのカフェでパンケーキを食べることや
長い休日を利用して旅行に行くこと・・・。

でも、そのパンケーキは食べたいと思って食べたものなのか。
「パンケーキが食べたい気分だなあ」は、一体どこから生まれたものなのか?

旅行に行くこともそうだ。
観光業者が提案する「観光ガイド」を見て、目的地を決める。
「美味しいお店」や「絶景スポット」・・・。
勿論、実際に自分が行ってみないと「美味しい」か「絶景」かはわからない。
なのにそこへ行き、満たされることを期待している。
つまり私たちは概念を消費している。

私たちの休日の過ごし方・・・生活は
コントロールされているといっても過言ではない。
巨大マーケットに組み込まれた生活。
退屈しないために、一生消費し続ける。

消費は退屈を紛らすためのものだが、同時に退屈を作り出す。
退屈は消費を促し、消費は退屈を生む。

メディアの情報は自分を行為に駆り立ててくれる動機になってくれる。
この動機がないことはもっと苦しい。
何をしてよいかわからない苦しみ・・・。
そして、人間は部屋でじっとしていられない
だから、熱中できる気晴らしを求める。
熱中するためであれば人は苦しむことすら厭わないし、積極的に苦しみを求めることすらある。

なのだから

猟銃を抱え、ウサギ狩りに行く人にポンッとウサギを渡してしまっては嫌な顔をされるに違いない。
歩きにくい道をウサギ狩りのために歩くことや、わざわざ重たい銃を構えて長い時間ウロウロする・・・。でも、そんなことをしなくても、ほら、ウサギをどうぞなんてしたらイヤだろう・・・。

人気店のパンケーキを食べるためなら、時間をかけて並ぶのことを問題としないものだろう。
苦であるはずの待ち時間を・・・(ラーメン激戦区となるともっと熾烈なものになるだろう)

旅行中の移動は、どこも混雑していて、暑すぎるとか寒すぎるとか、風邪やインフルエンザが流行っている時にも人混みに分け入り、わざわざ病原体を貰ってくる・・・(言い過ぎればそういうこと)

私たちは旅行を成し遂げる。
途中で帰ったりなどしない・・・。


「待ち時間が長すぎて途中で列から抜けたくなってきた」・・・

この気分になっても、「ここまで並んだのに勿体ない」と思い、さらに時間を割いて待とうとするだろう。
きちんと待ち、使うことを予定していた料金を支払う。

映画館で観る映画の例を挙げる。

ある映画のチケットが1800円であるとする。
しかし、映画が余りにもつまらない時・・・

①1800円払った映画を観るべきか
②映画館を出て残りの時間を有効に使うか が問題となる。

①映画を見続けた場合
チケット代1800円に加え、約2時間(上映時間)を失う。
②映画を観るのを止めた場合
チケット代1800円は失うが、残った時間を有効に使うことができる。

この場合、チケット代1800円はどの選択肢を選んだとしても絶対に回収できない費用である。
時間を浪費してまで「つまらない」と感じる映画を見続けることは経済学的に合理的な選択ではない。
一方、残りの上映時間を有効に使うことは合理的な選択であるといえる。

しかし、多くの人は「1800円がもったいない。元をとらなければ。」などと考え、つまらない映画を見ることに時間を使う。
これを埋没費用*1という。