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1991-2017

意欲を削ぐ叱り方

「批難することは相手の正当化を煽るだけで、相手の言い分を変えることは出来ない。」
こう感じている人から教わることはとても多い。

ギクシャクした場の雰囲気を変えるのは批難するというような怒りを示すことでも、敵意を剥き出しにすることでもない。
若き日のリンカーンのように決闘をするのでは一時的な感情の爆発でしかなく、問題の解決に直結しないどころか、討論を続けるだけで有益とは言えないだろう。

相手を上回る自己主張を述べることでもない。
自分の理屈で相手を屈服させ、従わせるというのは、もしかしたら人間を管理しやすいのかもしれないが、統治者でも何でもない一般人の自分からすれば、この場合における勝ち負けという概念はただ空しいだけだ。(資本主義社会に属するので勝ち負けを切り離せない居心地の悪さは感じる・・・)

普段の生活であれば、必要なものは批難ではない。
「相手の言い分をよく聞く」
これに限る。
「私はね私はね・・・」ではなく、相手への敬意と関心をあらわすことで、私たちは気持ちがよく生活できる。
そもそも、「私はね・・・」を主張したい気持ちというのは、自己の重要感を知らしめたいからなのだ。
「私はこうなんだ!」を知ってもらいたい・・・。
しかしこの、重要な人物として扱われたいと思うのは相手も同じだ。

ジグムント・フロイトによると

人間のあらゆる行動は、二つの動機から発する―
すなわち、性の衝動と、偉くなりたいという願望とである。

哲学者であり教育家でもあるジョン・デューイも、やや言葉を換えて表している。

人間の持つ最も根強い衝動は、重要人物たらんとする欲求だ。

つまり、人間というのは認められることを渇望している。
自己の重要感を渇望するあまり狂気の世界に入ってまでも満たそうとする・・・。