1991-2017

芸術を体験する

現在、資生堂ギャラリーにて吉岡徳仁氏の展覧会が開催されている。
期間は2017年1月13日(金)から2017年3月26日(日)なので、自分としては何としても行ってみたい・・・。
SPECTRUM - Resonant rainbows radiate from prisms  /  2017
www.tokujin.com

見るだけではなく、音で感じたり、自分の手で触れてみるといった
体験型の展示にはとても強く惹かれる。
まるで自分が場と一体化するような不思議な心地よさがある。
(そこにある素晴らしいものに触れることができるということが、一種の所有欲を満たしてくれるからなのか・・・)

完全に行きそびれてしまったMedia Ambition Tokyo 2017

MAT2017 teaser


インスタグラムの投稿で知ったのだ・・・遅かったのだ・・
いや
どちらにしても行くお金なんてないわけですが・・・
だからまあ むしろ
気づかなくてよかったんじゃないかなと思います。
それに、こういう体験型の展示は残念ながら
ちょっと一人では行きづらい・・。

大きな催し物は、どこも混雑を極めますが
個人的に2回、入場をチャレンジして断念した企画展があります。
21-21 DESIGN SIGHT「デザインの解剖展:身近なものから世界を見る方法」*1です。
ここはもう
カップルさんも、ご家族連れさんも楽しめるので
混雑を回避してゆっくり楽しむなんてムリ!(笑)

「おいしい牛乳」の牛乳パックが
一文字ずつ積み木のようにバラバラになっていて、来場者が自由に文字を組み立てられる。
「あんどー牛乳」だとか「みんなの牛乳」だとか・・・
行ってないから詳しくはわからないんですけどね・・・。


こういった、一緒に考えたり鑑賞後に疑問や興味が残るものというのは本当に素晴らしい。
21-21 DESIGN SIGHTの過去の企画展では佐藤雅彦氏の「これも自分と認めざるをえない展」*2
同氏がギンザ・グラフィック・ギャラリーで行った「指を置く」展*3

吉岡徳地仁氏がインタビューの際に語っていた。
「ショウウィンドウのガラスに子どもの手形の跡があったら、良い作品」
パリで行われたイッセイミヤケの展示会でも多くの子どもたちが楽しんでいた。
宙に浮き、ポンプのように伸び縮みする服たち。
その下で、伸びきって下におりてくる服をはしゃぎながら待つ子どもたち・・・。

作品だけでなく、人と人が作り上げるとてもいい空間。

私の休日、退屈と消費

退屈とは
事件を望む気持ちがくじかれたものであり、
退屈の反対は快楽ではなく興奮である。

そして、退屈している者にとって事件とは、
今日と昨日を区別してくれれば良いのであり
必ずしも愉快なものでなくてよい。

私たちは休日に外出する。
流行りのカフェでパンケーキを食べることや
長い休日を利用して旅行に行くこと・・・。

でも、そのパンケーキは食べたいと思って食べたものなのか。
「パンケーキが食べたい気分だなあ」は、一体どこから生まれたものなのか?

旅行に行くこともそうだ。
観光業者が提案する「観光ガイド」を見て、目的地を決める。
「美味しいお店」や「絶景スポット」・・・。
勿論、実際に自分が行ってみないと「美味しい」か「絶景」かはわからない。
なのにそこへ行き、満たされることを期待している。
つまり私たちは概念を消費している。

私たちの休日の過ごし方・・・生活は
コントロールされているといっても過言ではない。
巨大マーケットに組み込まれた生活。
退屈しないために、一生消費し続ける。

消費は退屈を紛らすためのものだが、同時に退屈を作り出す。
退屈は消費を促し、消費は退屈を生む。

メディアの情報は自分を行為に駆り立ててくれる動機になってくれる。
この動機がないことはもっと苦しい。
何をしてよいかわからない苦しみ・・・。
そして、人間は部屋でじっとしていられない
だから、熱中できる気晴らしを求める。
熱中するためであれば人は苦しむことすら厭わないし、積極的に苦しみを求めることすらある。

なのだから

猟銃を抱え、ウサギ狩りに行く人にポンッとウサギを渡してしまっては嫌な顔をされるに違いない。
歩きにくい道をウサギ狩りのために歩くことや、わざわざ重たい銃を構えて長い時間ウロウロする・・・。でも、そんなことをしなくても、ほら、ウサギをどうぞなんてしたらイヤだろう・・・。

人気店のパンケーキを食べるためなら、時間をかけて並ぶのことを問題としないものだろう。
苦であるはずの待ち時間を・・・(ラーメン激戦区となるともっと熾烈なものになるだろう)

旅行中の移動は、どこも混雑していて、暑すぎるとか寒すぎるとか、風邪やインフルエンザが流行っている時にも人混みに分け入り、わざわざ病原体を貰ってくる・・・(言い過ぎればそういうこと)

私たちは旅行を成し遂げる。
途中で帰ったりなどしない・・・。


「待ち時間が長すぎて途中で列から抜けたくなってきた」・・・

この気分になっても、「ここまで並んだのに勿体ない」と思い、さらに時間を割いて待とうとするだろう。
きちんと待ち、使うことを予定していた料金を支払う。

映画館で観る映画の例を挙げる。

ある映画のチケットが1800円であるとする。
しかし、映画が余りにもつまらない時・・・

①1800円払った映画を観るべきか
②映画館を出て残りの時間を有効に使うか が問題となる。

①映画を見続けた場合
チケット代1800円に加え、約2時間(上映時間)を失う。
②映画を観るのを止めた場合
チケット代1800円は失うが、残った時間を有効に使うことができる。

この場合、チケット代1800円はどの選択肢を選んだとしても絶対に回収できない費用である。
時間を浪費してまで「つまらない」と感じる映画を見続けることは経済学的に合理的な選択ではない。
一方、残りの上映時間を有効に使うことは合理的な選択であるといえる。

しかし、多くの人は「1800円がもったいない。元をとらなければ。」などと考え、つまらない映画を見ることに時間を使う。
これを埋没費用*1という。

意欲を削ぐ叱り方

「批難することは相手の正当化を煽るだけで、相手の言い分を変えることは出来ない。」
こう感じている人から教わることはとても多い。

ギクシャクした場の雰囲気を変えるのは批難するというような怒りを示すことでも、敵意を剥き出しにすることでもない。
若き日のリンカーンのように決闘をするのでは一時的な感情の爆発でしかなく、問題の解決に直結しないどころか、討論を続けるだけで有益とは言えないだろう。

相手を上回る自己主張を述べることでもない。
自分の理屈で相手を屈服させ、従わせるというのは、もしかしたら人間を管理しやすいのかもしれないが、統治者でも何でもない一般人の自分からすれば、この場合における勝ち負けという概念はただ空しいだけだ。(資本主義社会に属するので勝ち負けを切り離せない居心地の悪さは感じる・・・)

普段の生活であれば、必要なものは批難ではない。
「相手の言い分をよく聞く」
これに限る。
「私はね私はね・・・」ではなく、相手への敬意と関心をあらわすことで、私たちは気持ちがよく生活できる。
そもそも、「私はね・・・」を主張したい気持ちというのは、自己の重要感を知らしめたいからなのだ。
「私はこうなんだ!」を知ってもらいたい・・・。
しかしこの、重要な人物として扱われたいと思うのは相手も同じだ。

ジグムント・フロイトによると

人間のあらゆる行動は、二つの動機から発する―
すなわち、性の衝動と、偉くなりたいという願望とである。

哲学者であり教育家でもあるジョン・デューイも、やや言葉を換えて表している。

人間の持つ最も根強い衝動は、重要人物たらんとする欲求だ。

つまり、人間というのは認められることを渇望している。
自己の重要感を渇望するあまり狂気の世界に入ってまでも満たそうとする・・・。

「自分の身を守っただけでどうしてこんな目に遭わされるのだ」

高級住宅街が催涙ガスと機関銃の音で覆われいた。

 

「私の心は疲れ果てた心ではあるが、優しい心であるー・・・

誰ひとり人を傷つけようとは思わぬ心である。」

 

これは、その乱戦のなかにいた”関係者”に宛てられた手紙の一節だ。

送り主はニューヨークの凶悪犯クローレー。

彼は二丁ピストルのクローレーとまで呼ばれていた。酒も煙草も嗜まない男だ。

この一節が認められた手紙は乱戦中に書かれたもので、容赦なく流された血によって赤く染められている・・・。

 

 

「自分の身を守っただけのことで、こんな目に遭わされるんだ」

これが電気椅子にすわったクローレーの最後の言葉だ。

「大勢を殺したのだから自業自得だ」とは言わなかった。

 

自分が悪いとは、全然思っていない罪人は珍しくない。

全米を震え上がらせた暗黒街のアル・カポネでさえ

「俺は働き盛りの大半を世のために尽くしてきた。

ところが、俺が得たものは、冷たい世間の非難とお尋ね者の烙印だけだ」と嘆く。

「自分は慈善家だ」と大真面目で考えていた・・・。

 

世間は彼らを「極悪人」と呼ぶが、彼ら本人はそうは思ってはいない。

あくまでも自分の行為を正しいと信じており、世間から「悪事だ」と咎められても、実にうまくそれを説明する。

人間は、たとえ自分がどんなに間違っていても決して自分が悪いとは思いたがらない。

間違いを指摘しようものなら直ぐさま防衛体制を敷き、何とか自分を正当化しようとする。そして、自尊心を傷つけられたことは反抗心を起こし、危険な行動を引き起こしてしまう。

よって、悪いところをただただ述べるだけでは解決はされない。

「自分の行為は正しい」と思ったままなのだから。

その場が丸くおさまり沈静化されたとしても、永続的な効果は期待できない。

そして丸くおさまらなければ、相手の怒りを買い、状況は泥沼化するだろう。

場の状況を誰もが同じレベルで理解している、なんてことはあり得ないのだ。

 

実業家ジョン・ワナメーカーはこう言う。

私は人を叱りつけるのは愚の骨頂だと悟った。

自分のことさえ自分で思うようにはならない。

天が万人に平等な知能を与えたまわなかったことまで腹を立てたりする余裕はとてもない。

人を批難することの無益さは、歴史にも多くの例がある。

政治規模で例を挙げるなら、セオドア・ルーズヴェルト大統領が大統領の地位を、彼と同じ共和党のタフトに譲った時・・・(ルーズヴェルトはアフリカへライオン狩りに出かけていた)

しばらくして帰ってみると、タフトの政策が「保守的である」と世論の批判を浴びていた。

ルーズヴェルトは次期大統領の指名を確保するため、革新党を組織。その結果、共和党は壊滅の危機にさらされ、次の選挙でタフトを大統領候補に立てた共和党は二州のみ)

ルーズヴェルトは、タフトを責めた。

しかし、責められたタフトは自分が悪いと思っただろうか・・・?

「どう考えてみても、私にはああする以外に方法はなかった」と、悔し涙を浮かべ彼は人に語る。

批判をし、責めたてても、タフトは何とか自分の立場を正当化しようと躍起になり、繰り返し繰り返し、「ああする以外に方法はなかった」を言うだけであった・・・。

手厳しい非難や詰問は大抵の場合、役になど立たない。

批判が呼び起こす怒りは対象の意慾を削ぐだけで状態は改善されない。

 

偉大なるリンカーン大統領には、人の粗探しをし、人の反感ばかり買うようなことをしていた頃があった。相手を嘲笑った詩や手紙なんかも書き、わざと見えるような場所に落として置いたり・・・。

政治屋をやっつけた時には事態は決闘にまで発展し、双方の介添人が分け入ったことで果し合いは預かりとなったからよかったものの、このことリンカーンは肝を冷やす。

そして、二度と人を馬鹿にした手紙を書かず、どんなことがあっても人を批判するようなことは殆どしなくなった。

人を裁くなーー人の裁きを受けるのが嫌なら

リンカーンが好んだ座右の銘だ。

 

歴代の大統領のなかでも歴史に最も深く名を刻んだ人物の一人であり、

リンカーンほど完全に人間の心を支配できたものは世に二人とはいないだろう」とさえ讃えられた。

理解と寛容を持ち、優れた品性を備えた徳のある人物リンカーンは、多くの人に支持され愛された人物に違いないだろう。しかし彼は、奴隷解放に反対する組織に暗殺されてしまう・・・。

「天が万人に平等な知能を与えたまわなかったこと」を考えさせられる。

世界が・・・社会が・・

人間と人間が・・・理解しあうことが茨の道にも感じてくる。

 

この記事は、はてなブログの見たまま入力で編集してきた。

キーボードで打ち込んだ入力が画面に反映されるまで時間がかかりはじめたので今日はおわりにする。

 

 

 

 

 

サージカルステンレスについて

NAVERまとめ等から引用し、自分なりに文章の一部を強調しただけの記事です)

 

ステンレス・・・

【Stainless Steel(ステンレス鋼)】の略称。

Stain(錆び・汚れ) + less(少ない)= Stainless(錆びない・汚れない)、Steel(鋼)という意味があります。

 

一般的に、サージカルステンレスと表記されているアクセサリーは厳密に言えばサージカルステンレスという分類はない。
一般的に医療用の工具(メス・ハサミなど)に使用されれていることから、サージカルステンレスという俗称がついたと言われている。 

 

■ アレルギーを引き起こしにくい人にやさしい金属

  • サビにくい
  • 腐食や酸化・熱に強い

優れた特性を持つ特殊ステンレス


▣ 金やシルバーよりも非常に硬質

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▣ 高い硬度を誇る

 

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■ メンテナンス

傷が付きにくいと言われていても通常の使用でそれなりに傷はついてしまう。

鉄に比べると傷が付きにくいがタングステンのように殆ど傷がつかないということはない。

日常のお手入れは、他の材質のアクセサリーとそんなに変わらない。

  • 表面がくすんできたらアクセサリー用のクロスで拭く
  • ひどい汚れの場合は、水又はぬるま湯で洗う。洗ったあとは、水分をしっかりと取り除く。
  • 塗装、樹脂、漆などを使用したアクセサリーの場合は注意が必要。
  • 一般の金属磨きは研磨剤の粒度が大きいため、逆に傷がついてしまう可能性がある。