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1991-2017

女性の目を褒めるとき(深読み)

日記・記録

「目が綺麗ですね」「黒目が大きくていいですね」では
「これはカラコン」となってしまって、
相手を褒める言葉としてはちょっと足りない気がしてきた。

今やディファインのコンタクトレンズカラコンが普通に身につけるものになってしまった・・・。

「綺麗な目をしてますね」と、言葉の順番を変えるだけでもニュアンスが違う気がするし
「目の色がすごく綺麗ですね」なら
カラコンの色」を褒めているふうでもあって、
「自分に似合うものを選ぶセンスもあって綺麗ですね」と
「目」だけではないところも褒めとして捉えられるのでは・・・?
相手の捉え方次第で
「こう思われたい」を満たすことが出来るんじゃないか?

「こう褒められたい」を具体的な言葉であらわして
、的の真ん中にズドンと言葉を当てられたらいいけど
敢えて抽象的な言葉をつかって多元的に解釈してもらうほうが
相手は頭のなかでそれを「いちばん嬉しい言葉」に置き換えるんじゃないか?と。

「どこが?」「綺麗なところを言ってみてよ」と切り返してくる人がもしいたら
そのとき見て思ったことを、いったん呑み込まずそのまま言う。
本当は、意表を突く言葉でワッと喜んでもらいたい。


女性の目・・・カラコン、アイプチなどなど
お化粧のしかたで変わってしまうものを褒めるときは
本人のもとからあるよさを無視せず褒めることができたらいいなと。

初対面の女性がとても茶色い瞳をしていて、変わった目だなあと思ったところからの深読みでした・・・。

いのちの価値、私の価値

日記・記録

ひとは自己の存在をいのままに自由にデザインしうる。

ファッション産業・健康産業・メンタルトレーニングはセルフイメージを演出する。
この巨大マーケットは産業の核である。

モノではなく商品への欲望を生産していく。
美しいワタシ。清潔感すらも買える・・・。
ボディの理念が自由に制作可能という考え方まであと少しなのだ。

胎児、遺伝子、人工授精、凍結遺伝子、血清生産工場、臓器としての脳死体というボディショップ

生命の商品化を嘆くなら、そうした行為の根底にある「私の体は私の物だから、私が自由に処分しても良い」という思想を検証しなければならない。


所有関係から存在関係に転換することをマルセルは殉教に見出す。
他者の所有物として差し出す。
差し出し、意のままにならないとする。
そして自分という存在を手に入れる。
自分という存在を自らの意思で消去する。
からだの自己所有権の行使(存在への反転)

自己の体を所有物として放棄する。
自分の体を他者のからだにする。
所有関係を超えるという、所有権の否定が問題になる。
私のからだは私の意のままでならなくなることで、私はより深い存在を手に入れ、私の体は私の物という問題に直結する。

芸術を体験する

日記・記録

現在、資生堂ギャラリーにて吉岡徳仁氏の展覧会が開催されている。
期間は2017年1月13日(金)から2017年3月26日(日)なので、自分としては何としても行ってみたい・・・。
SPECTRUM - Resonant rainbows radiate from prisms  /  2017
www.tokujin.com

見るだけではなく、音で感じたり、自分の手で触れてみるといった
体験型の展示にはとても強く惹かれる。
まるで自分が場と一体化するような不思議な心地よさがある。
(そこにある素晴らしいものに触れることができるということが、一種の所有欲を満たしてくれるからなのか・・・)

完全に行きそびれてしまったMedia Ambition Tokyo 2017

MAT2017 teaser


インスタグラムの投稿で知ったのだ・・・遅かったのだ・・
いや
どちらにしても行くお金なんてないわけですが・・・
だからまあ むしろ
気づかなくてよかったんじゃないかなと思います。
それに、こういう体験型の展示は残念ながら
ちょっと一人では行きづらい・・。

大きな催し物は、どこも混雑を極めますが
個人的に2回、入場をチャレンジして断念した企画展があります。
21-21 DESIGN SIGHT「デザインの解剖展:身近なものから世界を見る方法」*1です。
ここはもう
カップルさんも、ご家族連れさんも楽しめるので
混雑を回避してゆっくり楽しむなんてムリ!(笑)

「おいしい牛乳」の牛乳パックが
一文字ずつ積み木のようにバラバラになっていて、来場者が自由に文字を組み立てられる。
「あんどー牛乳」だとか「みんなの牛乳」だとか・・・
行ってないから詳しくはわからないんですけどね・・・。


こういった、一緒に考えたり鑑賞後に疑問や興味が残るものというのは本当に素晴らしい。
21-21 DESIGN SIGHTの過去の企画展では佐藤雅彦氏の「これも自分と認めざるをえない展」*2
同氏がギンザ・グラフィック・ギャラリーで行った「指を置く」展*3

吉岡徳地仁氏がインタビューの際に語っていた。
「ショウウィンドウのガラスに子どもの手形の跡があったら、良い作品」
パリで行われたイッセイミヤケの展示会でも多くの子どもたちが楽しんでいた。
宙に浮き、ポンプのように伸び縮みする服たち。
その下で、伸びきって下におりてくる服をはしゃぎながら待つ子どもたち・・・。

作品だけでなく、人と人が作り上げるとてもいい空間。

私の休日、退屈と消費

日記・記録

退屈とは
事件を望む気持ちがくじかれたものであり、
退屈の反対は快楽ではなく興奮である。

そして、退屈している者にとって事件とは、
今日と昨日を区別してくれれば良いのであり
必ずしも愉快なものでなくてよい。

私たちは休日に外出する。
流行りのカフェでパンケーキを食べることや
長い休日を利用して旅行に行くこと・・・。

でも、そのパンケーキは食べたいと思って食べたものなのか。
「パンケーキが食べたい気分だなあ」は、一体どこから生まれたものなのか?

旅行に行くこともそうだ。
観光業者が提案する「観光ガイド」を見て、目的地を決める。
「美味しいお店」や「絶景スポット」・・・。
勿論、実際に自分が行ってみないと「美味しい」か「絶景」かはわからない。
なのにそこへ行き、満たされることを期待している。
つまり私たちは概念を消費している。

私たちの休日の過ごし方・・・生活は
コントロールされているといっても過言ではない。
巨大マーケットに組み込まれた生活。
退屈しないために、一生消費し続ける。

消費は退屈を紛らすためのものだが、同時に退屈を作り出す。
退屈は消費を促し、消費は退屈を生む。

メディアの情報は自分を行為に駆り立ててくれる動機になってくれる。
この動機がないことはもっと苦しい。
何をしてよいかわからない苦しみ・・・。
そして、人間は部屋でじっとしていられない
だから、熱中できる気晴らしを求める。
熱中するためであれば人は苦しむことすら厭わないし、積極的に苦しみを求めることすらある。

なのだから

猟銃を抱え、ウサギ狩りに行く人にポンッとウサギを渡してしまっては嫌な顔をされるに違いない。
歩きにくい道をウサギ狩りのために歩くことや、わざわざ重たい銃を構えて長い時間ウロウロする・・・。でも、そんなことをしなくても、ほら、ウサギをどうぞなんてしたらイヤだろう・・・。

人気店のパンケーキを食べるためなら、時間をかけて並ぶのことを問題としないものだろう。
苦であるはずの待ち時間を・・・(ラーメン激戦区となるともっと熾烈なものになるだろう)

旅行中の移動は、どこも混雑していて、暑すぎるとか寒すぎるとか、風邪やインフルエンザが流行っている時にも人混みに分け入り、わざわざ病原体を貰ってくる・・・(言い過ぎればそういうこと)

私たちは旅行を成し遂げる。
途中で帰ったりなどしない・・・。


「待ち時間が長すぎて途中で列から抜けたくなってきた」・・・

この気分になっても、「ここまで並んだのに勿体ない」と思い、さらに時間を割いて待とうとするだろう。
きちんと待ち、使うことを予定していた料金を支払う。

映画館で観る映画の例を挙げる。

ある映画のチケットが1800円であるとする。
しかし、映画が余りにもつまらない時・・・

①1800円払った映画を観るべきか
②映画館を出て残りの時間を有効に使うか が問題となる。

①映画を見続けた場合
チケット代1800円に加え、約2時間(上映時間)を失う。
②映画を観るのを止めた場合
チケット代1800円は失うが、残った時間を有効に使うことができる。

この場合、チケット代1800円はどの選択肢を選んだとしても絶対に回収できない費用である。
時間を浪費してまで「つまらない」と感じる映画を見続けることは経済学的に合理的な選択ではない。
一方、残りの上映時間を有効に使うことは合理的な選択であるといえる。

しかし、多くの人は「1800円がもったいない。元をとらなければ。」などと考え、つまらない映画を見ることに時間を使う。
これを埋没費用*1という。


最後に

合理性を欠くが、何だか和んでしまう例を挙げる。
>>パパがルンバを買ってきたんだけど「掃除をしないで済む時間」が「ルンバを見る時間」にとってかわってしまって家族全員が考えることをやめた<<
私たちは、生産性や実利に基づく合理性とはまったく別の部分で精神的満足を満たすことにお金や時間を費やす不合理な生き物といえるだろう・・・。

意欲を削ぐ叱り方

日記・記録

「批難することは相手の正当化を煽るだけで、相手の言い分を変えることは出来ない。」
こう感じている人から教わることはとても多い。

ギクシャクした場の雰囲気を変えるのは批難するというような怒りを示すことでも、敵意を剥き出しにすることでもない。
若き日のリンカーンのように決闘をするのでは一時的な感情の爆発でしかなく、問題の解決に直結しないどころか、討論を続けるだけで有益とは言えないだろう。

相手を上回る自己主張を述べることでもない。
自分の理屈で相手を屈服させ、従わせるというのは、もしかしたら人間を管理しやすいのかもしれないが、統治者でも何でもない一般人の自分からすれば、この場合における勝ち負けという概念はただ空しいだけだ。(資本主義社会に属するので勝ち負けを切り離せない居心地の悪さは感じる・・・)

普段の生活であれば、必要なものは批難ではない。
「相手の言い分をよく聞く」
これに限る。
「私はね私はね・・・」ではなく、相手への敬意と関心をあらわすことで、私たちは気持ちがよく生活できる。
そもそも、「私はね・・・」を主張したい気持ちというのは、自己の重要感を知らしめたいからなのだ。
「私はこうなんだ!」を知ってもらいたい・・・。
しかしこの、重要な人物として扱われたいと思うのは相手も同じだ。

ジグムント・フロイトによると

人間のあらゆる行動は、二つの動機から発する―
すなわち、性の衝動と、偉くなりたいという願望とである。

哲学者であり教育家でもあるジョン・デューイも、やや言葉を換えて表している。

人間の持つ最も根強い衝動は、重要人物たらんとする欲求だ。

つまり、人間というのは認められることを渇望している。
自己の重要感を渇望するあまり狂気の世界に入ってまでも満たそうとする・・・。