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1991-2017

物に支配されない生活をするには

「美しいワタシ」。
清潔感すらも買える、巨大マーケットのなかで我々は生きている。

そして、ひとは自己の存在をいのままに・・・自分を自由にデザインしうる。
ファッション産業 健康産業 メンタルトレーニング・・・セルフイメージの演出は産業の核となった。

私たちは物に支配されている。

所有しようとして、逆に所有されてしまう。
自由を謳ったものに浸食され、逆に自分を最も不自由にしてしまう。
私たちは絶対的な所有を夢見るが、そうするなかで所有物の逆規定を拒絶したイニシアティブの反転により、必然的に憎しみが伴う・・・。
所有することに絶望した者は絶対的な非所有を望み、世捨て人となるだろう。


ファイトクラブ』という映画がある。

この映画に登場する男性は、毎日のように飛行機に乗って事故現場へと向かいホテルに泊まる。そして、自動車のリコールに関する冷酷な計算を繰り返す。
毎日違う場所で寝て起きる生活。飛行機やホテルで出される、一回きりしか使えないアメニティグッズを使い捨てる毎日。
彼はそれに疲れ果てている。そのためであろうか、彼は自虐的である。

そんな彼の楽しみは北欧家具である。悩みに悩んでソファーを選び、ブランド家具で部屋を埋め尽くしている。彼の部屋は彼そのものである。
こうした終わらない消費は退屈を紛らすためのものだが、同時に退屈を作り出す。退屈は消費を促し、消費は退屈を生む。そのうち彼は不眠症になり、救いを求めて医者通いをする。そのうちに、難病患者らのミーティングに参加する。
メンバーは一対一で話すようにも求められる。彼は偽の参加者であるが、にも関わらず、彼は堰を切ったように泣き始める。そしてその晩、泥のように眠るのだ。ミーティング参加者たちの苦しみに囲まれることで、彼は安らぎを得たのだ。つまり、それまでの彼は苦しみの中にいなかった。彼は、きちんと苦しむことを願い、ミーティングに参加することで苦しみのシュミレーションを行った。が、それが長続きするはずはなく、彼のなかで殴り合いというものが行われ始める。この殴り合いに誘ったのは、我らがブラピ演じるタイラーという男である。

このタイラーとは典型的な反消費社会の人間である。「お前は物に支配されている。宣伝文句に煽られて、いりもしない車や服を買わされている。」というセリフがある。だが、タイラーが消費社会の外にいるわけではない。タイラーが自分らしく生きているのではない。彼は消費社会の論理に従った消費社会を拒否している。そのことでタイラーはタイラー足り得ている。彼はただ消費社会を拒み、それを破壊するだけである。この後に何が来るのか、その時に何をなすべきなのかは全く考えていない。なぜタイラーは破壊にしか向かえないのか、これは消費社会による個性が不透明のまま個性化を煽る消費社会の論理と全く同じである。 消費者によってもたらされる現代の阻害と呼ぶべき事態が存在している・・・。

ファイトクラブの目的はどういうものなのだろうか。
殴り合いをすると、切れば血が出る。自分たちには肉体がある。自分たちは生きている・・・という確認ができる。頭を何針も縫う大怪我をするが、痛みが彼らに「生きている」という実感を与え続ける。
ファイトクラブに参加するのは彼とタイラーの二人だけではない。ファイトクラブに参加するのは、自分は何かを作り上げる運動に参加していると感じることができるためである。まだ何も終わってなどいない、と。
当然、体には負荷が掛かっている。負荷が掛かった状態を生きること、苦しさを堪えて生き延びること・・・。彼らの心の中にあるのはまさしく、苦しみたいという欲望である。

本当に苦しむことを望む。
苦しみのシュミレーションのための難病患者たちのミーティングに参加をするが、それでも苦しみたいという欲望は満たされない。
現実の苦しみを感じられる殴り合いの「ファイトクラブ」に参加することで生きていることを確認する・・・。苦しみに囲まれることで安らぎを得たということだ。

緊張の中にいることは深刻な極限的状況だ。決定的瞬間に立たされている。戦争というものに直面している社会において体験されることは、生きていることであった。それこそ自分たちが自分たちの生命をかけて何かに打ち込む瞬間・・・生きていると実感できる瞬間がある。時代背景によっては破滅的戦争と呼ぶようなものだ。

毎日のように事故現場に向かう男は、自分の乗る飛行機が事故を起こして墜落することを望む。彼の中では事件を望む気持ちが極限に達している。今日と昨日とが区別されるなら、もはや自分の死すら厭わない。彼は、現実を生きているという感覚を欲している。


バートランドラッセルによると退屈とは事件を望む気持ちが挫かれたくものであり、退屈の反対は快楽ではなく興奮である。そして退屈している者にとって、事件は今日と昨日を区別してくれればいいのであり、必ずしも愉快なものでなくてよい。

人間は部屋でじっとしていられない。だから、熱中できる気晴らしを求める。熱中するためであれば人は苦しむことすら厭わないし、積極的に苦しみを求めることすらある。この幸福であるなかの不幸・・・。ラッセルは、動物は健康で、食べるものが十分にある限り幸福である。人間も当然そうだと思われるのだが、現在世界ではそうではないと説く。
取り立てて不自由のない生活。戦争や貧困や餓鬼の状態にある人々なら、心から羨むような生活・・・。
人間は苦しむことで苦しみを乗り越える。乗り越えるための知識を獲得し、進化を遂げてきた。それ以外に、極限的な苦しみとは異なる独特の耐え難さ。何かといえば、原因がわからないということである。極限的状態においては外的原因がはっきりとある。しかし、日常的な不幸にはそれがない。なんとなく不幸であるのにそれがなんだかはわからない。この日常的な不幸が大きな問題となって社会を揺るがしていることに危機感を抱いたのは幸福論(1930)にも記されている。

リコール費用と損害賠償のどちらが安いのか?人間の命に値段をつけられるのか?これを考えなければならないというのは、現実感の喪失に直結することだ。全体的の幸福度が最も大きくなることを目指す功利主義*1によって個人の権利が尊重されなければ、アメニティーの消費と人間の命の消滅は重なるだろうし、人間の命を消費するということにもなりかねない事態である。

所有関係から存在関係に転換することをマルセルは殉教に見出す。他者の所有物として自分を差し出すこと・・・差し出し、意のままにならないとすることで、私は自分という存在を手に入れる。というものだ。

自分という存在を自らの意思で消去することとはどういうことか。自己の体を所有物としては放棄し、自分のからだを他者のものにする・他者の体にすることで、所有関係を超えるという所有権の否定が起こる。「私のからだは私の意のままでならなくなる」ことで、私はより深い存在を手に入れる。そうして私の体は私の物という問題に直結する。

私たちがするべきことは、ファイトクラブや戦争のような、傷つき・・血を見ることで生きているんだと感じとることではない。テレビやネットでしきりに宣伝されるアイテムや、ショウウィンドウに並ぶ煌びやかな物を消費し続けることでもない。自分以外の人間に自分という存在を差し出し差し出され、互いの存在を確認していくことだろうと思う。

ネットにさまよう遺書がどれだけあるのか

ネットに書き込まれた遺書じみたものや、自殺するまでの心境を綴ったブログがいくつある。
真偽を問わず、いくつ存在しているか調査するべきだと思う。
インスタグラムでは心の病を持つ人が自傷画像や自傷を感じさせる言葉を更新することで閲覧者がシステムサポートに通報し、本人に注意および専門機関をすすめるシステムがあるらしい。自傷画像を更新した人がスクリーンショットで公開してたから知ってる。「こういうの余計なお世話なんで」と言って。

声のなかにはとてもあっさりとしたような、悩みなんて深くないんじゃねえの?と思ってしまうような心情の吐露が溢れている。
日常的なSNSで更新されるものや、ここはてなブログで更新される文章、無料ホームページサイトで更新される文章に文字化された書き手のことが表されている。言語化とは非常に難しい、なんせ「私」が思ってることは、私が思ってる以上に伝わることはないに等しいし、気持ちの半分どころか1割も伝わらないことばっかりなんだから私たちは言葉を発すること=助けを求めていると思ってはいけない。行動で表現しようとしても無駄だ。しょせん赤の他人同士であって、興味本位もしくは読み手が自分の心境と似通った理解できる範囲内のものであると認識しないと哀れとは思ってもらえないもんなのだ。私は私のことしかかわいくなく、赤の他人を思いやる余裕なんてなく、きっと明日も変わらず生きている私と赤の他人のあなたなんだから・・・いくら悲しいと嘆いても明日を生きる事実には変わりがないでしょう?


どうして太陽がのぼることを信じ、明日を待つことが出来るのか。哲学の世界ではこんな疑問もあります。
それは、なんでかっていったら「明日も太陽がのぼる」ことは習慣となっており、我々の経験がそう判断しているのだ!!などと供述しており・・・

それと同じように私たちが明日も酸素を吸い二酸化炭素を吐き、死んでやると言いながら飯を炊き夜をこえてしまうもんなのだ。生きていることはもはや体に染みついた習慣だろう。しかも依存性のある。依存というのは過去の歴史に挙げられていたのかは、そこまではわからないが近代になって依存が病気であるなんていう考えに至った。きのう聞いた話だと、多飲症というものが精神疾患として挙げられているらしい。これは「1日に水を10リットル飲む」「水を飲んでいないと落ち着いていられない」というものらしく水を飲むということにたいして体の悪いものを浄化させられるとか一種信仰のようなものにさえなっているそうだ。
前に、このはてなブログのなかに「我々はものを消費しているのではなく概念を消費している」ということを書いた(かもしれない)が水を大量に飲むということにも似たものを感じた。アルコールなら体にしみつく依存性があるものなんだろうが、水はそうではない。「体にこんな影響がもたらされますよ~」という医学的な見地からして依存と呼ばれる以外に、多飲症のように、ただただ自分がそうしていないとならないという強迫概念が発動し、あとから体を壊すなんていうことが現代では起こっている。人間の本能や欲求は壊れかかっていると説かれているが、壊れかかった本能や欲求のエネルギーは消滅することなくベクトルをかえ新たな問題をうみだしている。今くしゃみが4回でとまってしまうと私は「どっかのだれかに死ねと言われている」と思うので今わりとメンタル削ぎ落されました。

たまには変わっていておもしろいかなあと思い意識がぼや~っとしたままこの記事をかいています。お酒を入れているものでね・・・文字のタイプミスを直すとか確認することいつもより多いです。さっき、1階におりて、飲み物を取ってくるときに階段で足の親指をガッとぶつけるくらい頭がぼや~っとしています。

まあでも本当、「今からここに記録した自殺の計画を実行します」の更新から2年3年も更新がなかったら気持ちを空っぽにするしかないんですよね。見ず知らずのあなたの苦しみを私が見つけたときにはもうあなたはこの世にいないのかもしれないですね。

タイトルなし

銃で頭や心臓を撃ち抜かれたとして

私の体はとても邪魔な、
処分に困るものになるんだろう


友達に
お願い、本当にお願い・・・
なるべく苦しくないように
殺してくれと頼んだとして

私の望みを叶えてくれたとして
人を雇ったりして 殺してくれたら 友達は
私を見る最後の時間をつくろうとするのか
そうしてほしくなくても私はどうすることもできない


生前に何かを頼んだとしても
最終的にどうするか、したいか
決めるのは生きてる人たち・・・
もし自分が決めたとおりを通したいなら
全部自分一人で処理するべきで・・・
せめて 生きてるうちに
周りの人とお別れすること・・
自分が寂しいからと、親しい人が自分を気にかけたままではいけない
冷静な頭でならそう思うのに
ぽしゃんと
呆気ない音でも立てて、沈んでしまいたくなる時がある。
水たまりにでも、ぽしゃんと沈んで
浮き上がってこなければいいのにと。


死にたい人が安楽死を選べたとして
自分の体が、安楽死をした他の人たちの死体と
同じ一箇所にまとめて置かれるなら
私はきっとかなしいと思うんだろう
ものの一つにすぎない
特別でもなんでもない、さびしい自分を感じて
もう自分の居場所からいなくなってるくせに
どうしてか、まださみしくなるんだろう

スイスで70万円くらいでできるみたいだよ。


撃ち殺されて海に沈められる私は静かに沈んでいく。
深夜、朦朧としたまま海に沈んでいくようなやたら静かな気持ちだった。

女性の目を褒めるとき(深読み)

「目が綺麗ですね」「黒目が大きくていいですね」では
「これはカラコン」となってしまって、
相手を褒める言葉としてはちょっと足りない気がしてきた。

今やディファインのコンタクトレンズカラコンが普通に身につけるものになってしまった・・・。

「綺麗な目をしてますね」と、言葉の順番を変えるだけでもニュアンスが違う気がするし
「目の色がすごく綺麗ですね」なら
カラコンの色」を褒めているふうでもあって、
「自分に似合うものを選ぶセンスもあって綺麗ですね」と
「目」だけではないところも褒めとして捉えられるのでは・・・?
相手の捉え方次第で
「こう思われたい」を満たすことが出来るんじゃないか?

「こう褒められたい」を具体的な言葉であらわして
、的の真ん中にズドンと言葉を当てられたらいいけど
敢えて抽象的な言葉をつかって多元的に解釈してもらうほうが
相手は頭のなかでそれを「いちばん嬉しい言葉」に置き換えるんじゃないか?と。

「どこが?」「綺麗なところを言ってみてよ」と切り返してくる人がもしいたら
そのとき見て思ったことを、いったん呑み込まずそのまま言う。
本当は、意表を突く言葉でワッと喜んでもらいたい。


女性の目・・・カラコン、アイプチなどなど
お化粧のしかたで変わってしまうものを褒めるときは
本人のもとからあるよさを無視せず褒めることができたらいいなと。

初対面の女性がとても茶色い瞳をしていて、変わった目だなあと思ったところからの深読みでした・・・。

いのちの価値、私の価値

ボディの理念が自由に制作可能という考え方。

胎児、遺伝子、人工授精、凍結遺伝子、血清生産工場、臓器としての脳死体というボディショップ

生命の商品化を嘆くなら、そうした行為の根底にある「私の体は私の物だから、私が自由に処分しても良い」という思想を検証しなければならない。